桃花乃宮 愛摘姫

こちらは、創作の庭。 桃花乃宮です。 どうぞごゆっくりご堪能くださいませ。

花が咲くように、物語ひとつ咲く。

家を出るとき、婦人は、ちょっとだけどと言って、干した野菜と、フルーツと、パンを持たせてくれた。
朝、キセルのおじいさんはいなかった。婦人だけが家にいるようだった。
もしかして、おじいさんや家族の人はもう畑にでもいっているのだろうかと、ナディンは思った。
リリも婦人にゆっくりお礼をいうと、助手席に乗り、ナディンは車を走らせた。
天気がよく、青空だった。
出発を早めたおかげで、道はそれほど混んでおらず、また山道に向かった。
昨日の山よりも、それほど険しくなかった。緩いといっても、地元にある山よりは、ずっと高かった。
窓を開けながら、山林を走っていると、虫も飛んできたりした。
気持ちよい春の風に、二人とも、黙ったままだった。

途中、山の頂点付近で、車を降りて、景色を眺めながらパンを食べた。
山から見下ろす景色は、いままでみたことないものだった。
すでに、住んでいた町は見えなくなっていた。
山の向こうの裾から、国道を挟んだ先に広がっていることだろう。
穏やかでのんびりした田舎町が。
自分たちと同じ朝を向かえ、町が活動し始めている頃だろう。
ナディンは、地元の町が見えなくなると、ずいぶんと遠くまできたなと感じた。
見慣れていたものが見えなくなると寂しさが湧くというよりも、日常を締めていた呪縛のようなものから、一切解放され、新しく出会うものすべてを受け入れられる容量が、心に生まれているのだった。

リリは、深呼吸していた。
昨日の昼から、彼女は毎日一緒にいた子供たちと会っていない。
もうすぐ丸一日となる。
身体が、子供たちを記憶しているようで、肌のふれあいや接触がないことが、なんだか落ち着かない気分にさせた。
毎日一緒にいた子供たち。今の時間は何をしているのだろうかと、考えている自分に驚いたりした。
丸一日、子供たちと触れ合わないだけで、まるで、身体が夜泣きでもしているようだった。乳を離すと、口寂しくて、指をくわえる子供と同じような気分だった。
それを埋めるかのように、旅では新しく出会いを見つけようと思った。
そう思わないと、リリは、心にふと湧いた寂しさが、身体中をめぐってしまいそうだったからだ。

また、しばらくして、車を走らせた。
山林は下りにさしかかり、これを降りきったところには、海のある町があるはずだった。
空高く茂る木々の間をぬけて、道を走っていった。
車は、軽快なスピードで進んでいった。
見渡していた山林の間から、少しずつちらほらと家が見えるようになってきていた。
町が近いことを示している。

山林を抜けて、家々が並び空が見渡せる見晴らしのいい場所までくると、海の方向はすぐにわかった。
空が、海へと続いている青が見えた。
リリは、その空をじっとみつめて、ワクワクでいてもたってもいられないというような表情をしていた。
ナディン自身も、海をみたのは、もうずいぶん前だった。
学生の頃と、その後、勤めだした頃に行ったきり。
リリもナディンと同じ町で学生として出会い、その後、仕事をし結婚してからもずっと同じ町に住んでいた。
海のない町だったので、ナディンと一緒にいった学生の頃と、その後、結婚してから子供たちをつれてデイと行ったきりだ。
またしても、デイや子供たちのことを思い出している自分が、おかしく思えてきていた。

「まったく、これじゃ運命の人が、隣を歩いていてもわかりゃしないじゃない」

と心の中でぼやくと、自分に喝を入れた。
車の窓から入ってくる風が、山林とは違った香りがしていた。
しばらくして、それが、磯の香りだということに気づいた。
海に慣れていない自分たちにとっては、磯の香りというものも、なじみがない。
山間の木々に囲まれる生活には慣れているけれど、海という、より大きなものは、馴染みのない自分たちにも不思議な魅力を見せてくれる場所であった。

街並みを抜けて、港へと続いている防波堤までやってくると、ナディンは車を止めた。
リリは、すぐにドアをあけて外に出て、歓喜の声を上げた。


「蒼いわ!風も波も。すべて。この世界の泉だわ!」

大きな声で、叫び

「まるで地球の鼓動に呼応している、母親のようだわ」

とも、言った。
隣にいるナディンも、リリの言っていることがよくわかった。
彼女ほど、ロマンチストに形容できないにしても、その感動する様がよく伝わってきていた。
自分にもそういう才能があったなら、うまく伝えられるだろうに。
ナディンは、リリの形容を海風と一緒に飲み込み、喉から落ちてゆく歓喜を味わった。

防波堤の白いペンキと、抜けるような空の青と、波の間から見える蒼。
空を見上げると、太陽が、まぶしく光で見えなくなってしまう。
吸い込む風は、潮の風。
初春の陽気に、薄い袖の生地から差し込んでくる陽のあたたかさ。
リリの中で、新しいことが始まる予感を感じるには、十分すぎるようだった。




   ※※※※※※※※



ナディンは、持ってきていた車に、リリのスーツケースを入れ込むと、運転席に乗った。
リリは手短にデイと子供たちへの別れを済ませていた。
リリは子供たち二人と、ハグをして、二人の髪をなで、頬を寄せて長く抱きしめていた。
彼女にとって子供たちは生活のすべてであり、
そして、有り余る彼女の愛をそそぐ終着地だった。
彼女にとって、子供たちとの別れが一番辛そうだった。
二人の頬を手でつつみ、両目を覗きこみながら、何か話しているようだった。
子供たちとしては、小さな頃から物分りがよく、二人とも彼女のとる突拍子もない行動の数々をいつもそれとなく受け止めているような達観した精神を持ち合わせていた。
デイには、軽いハグと、頬にキスをすると、二言三言言葉を交わしたかと思うときびすを返し、満面の笑みをうかべて車の助手席に乗り込んできた。

シートベルトをすると、ナディンの方を見上げて

「行きましょう!」

とはずむような声色で言った。
バックミラーに映る、デイと子供たちは、塀の角を曲がるまで、手を振っていた。
その姿をみるだけでも、子供がいないナディンですら、涙がでそうになり、鼻が痛くなった。
リリは、窓に肘をついてサイドミラーで、ちょっと確認すると、後はみなかった。
彼女なりの別れは、キッパリしていた。


車を走らせて、最初に向かったのは、ナディンの自宅だった。
リリの家に向かうまで、自分が今日から旅にでるなんて思ってもみなかったからだ。
ナディンは、アパートに戻り、自分の着替えを整理しだした。

アパートは、学生の頃から使っている古い建物だったが、中庭などがあり、室内も整備されて、使いやすくなっていた。
引っ越そう引っ越そうと最初のころは考えていたが、その建物の雰囲気が古びた感じや、窓辺のサンが古くなり傷ついている様子や階段の手すりのレトロなところなどが、だんだんと味に見えてきて、そのまま気づくと10年以上もいついてしまっていた。大家さんもいい人で、何かとナディンを娘のように可愛がってくれているのだった。
もちろん、リリは何度も来たことがあり、来るたびに、その古さのことに、一文句付け足すのだが、その後はなんだかんだいって、彼女自身が、お気に入りの窓辺の椅子にもたれて、ぼんやりと外を眺めくつろいでいるのだった。


部屋に入ると、リリは、

「階段の手すりの木がギシギシなって、くもの巣が張っているわよ」

と渋い顔で言い、いよいよ崩れるそうねと、くすりと笑った。
ナディンは、リリの言葉を聞こえないフリをし、自分が持っている一番大きなスーツケースに荷物を詰めていった。
ナディンには、もって行くような小物などはないために、ケースは二つで済んだ。
しかし、二週間も家をあけるとなると、水周りや冷蔵庫なども心配だったので、そそくさとキッチンに向かい、戸棚や食材を整理し始めた。
それから、水道やガスの元栓をしめると、通帳や財布の入ったものをカバンにつめこんだ。
ナディンにとっても、今回のような旅は初めてだった。
車で行くにしても、風まかせの旅であり、どこに向かうか、何が待っているかわからないのだから、蓄えをもっていくのは気持ちを落ち着かせるためでもあった。
自分にとっても、何があるかわからない旅なのだから。

リリは、窓辺に立ち、遠くの景色を眺めていた。
いつも座る椅子には、座らずに、遠くを眺める姿には、旅立ちの時を知らせているようだった。

「行きましょう!」

今度は、ナディンが言った。
リリは、振り返り、ニコッと笑った。


車に乗り込み、まずは、国道に出ることにした。
何もない、のんびりした田舎道を、舗装されていないガタガタ道を進んでいった。
何年も慣れ親しんだ、穏やかな風景も、今日はこの街を離れると思うと、どこか違ったものに見えた。
ナディンは、それを、風景が旅立つ自分たちに、『もうお前たちはこの町を出て行くのだから、親しみを沸かせない』といってソッポを向いているように感じた。
いつもは、見慣れた標識だろうが、こういうときは、その標識すら、どこかよそよそしく自分に接しているように感じる。

ナディンは、リリをみると、彼女は別のことを考えているようだった。

「ねえ、これからどこに向かえばいいの?」

ナディンが聞くと、リリは言った。

「そうね、とりあえず海がみたいわ。海のある街にでましょうよ」

そこで、二つほど山を超えたところにある綺麗なビーチのある街に向かうことにした。

平坦な田舎道をすぎて、国道にでると、世の中にはこれほどたくさんの車があるのかというほど、走っていた。
ビュンビュン飛ばしていく、車たちにナディンは、運転する手も震えそうだった。
自分たちは、何もそこまで飛ばして急ぐ予定もないのだから、ゆっくり確実に行こうと思ってからは、気持ちも落ち着いた。

リリは、国道を走る車や、流れる景色、遠くに見える山脈に、目をクリクリさせながら楽しんでいるようだった。
ナディンは、その様子をみて、今回のことは結構骨が折れたけれど、気分転換になっているようで少しほっとしたりした。
しかし、車の多さや、田舎道ばかりで慣れていない運転の疲労から、ナディンは、国道を離れることにした。
国道を離れると、海辺の町までは少し遠くなる。
本当は、運転を側って欲しいのだが、リリは免許どころか、資格という何も持っていないのだった。

「はあ、疲れたわ。平凡な街ばかり運転していたから、国道を運転するのって、疲れるわ。
リリ、あなたがせめて免許を持っていたなら、側って欲しいくらいよ」

そう、やっかみを言うと、リリはコロコロ笑って、

「あら、車の免許なら持っているわよ」

「え?そうなの?いつとったの?」

あら、といって、笑い

「学生の頃にとったわよ」

と言った。ナディンはビックリして、

「そうだったの?知らなかったわ。じゃ運転できるのね」

と言って、今回の旅が、運転手にならなくて済むとホッとしたが、

「一度も、乗ったことないのよ」

と言って、ウィンクした。
ナディンは、想像通りの答えのような気もして、ガッカリした顔を見せた。
リリは、その様子に、少し気を使ってか

「あたしこの機会に、運転してもいいわよ」

と言ったが、彼女自身その自信はなく、ナディンもまだローンが数年残っている車を台無しにはしたくなかったので、
「別にいいわよ」

といって、エンジンを掛けなおした。

あたしが、リリに何か期待するほうが間違っているってもんだわ。
この子は、なんだかんだいったって、お姫様なんだから。

そう心の中で、毒づいた。

リリはその後も、申し訳なさそうにもしていたが、車から見える景色がやはり新鮮だったようで、
ドライブを楽しんでいた。

山道に入ると、急な斜面にどんどん道が狭まっていく。
木々が覆いかぶさるような山道を、ゆっくり車で登っていく様子が、リリにはたまらないようであった。

「あたしたちの街にも、山はあるけれど、ココの山は、まったく別ね」

リリははしゃいでいるようだった。

「うちの街にあるといっても、こっちのほうが、大きい列記とした山よ」

ナディンがいうと、リリは、うなづきながら、

「この道から見える、木々が、なんだかうちの山にあるのと違って、強いゴテゴテした表情をしているわ。とっつきにくいような」

といって、はしゃぎながら窓をあけて眺めていたリリは、いった。

「ん~でも、あたしは、うちの街にある山のほうが、穏やかで仲良く慣れそうだわ」

生えている植物も、大きな山特有の、人を寄せ付けないような、凛とした出で立ちだった。
松や杉で覆われている山道を抜けて、やっと下り坂にやってきた。
そこにある松や杉は、地元にあるような、人の手に触れられている育ったものではなく、山々の深い山林の中で成長した人に触れられることのない宿命であり、それは、一種の山の掟の中に生きているような潔さや威厳を感じた。

リリは、そのことを言っていたのだと思う。

ナディンはそのまま車が山道を下るのに任せた。
どんどん下っていくと、その先に、うっすらと明かりが見えてきていた。

山林の中を進んでいたために、気づかなかったが、日暮れが近づいていた。
夕暮れに、明かりをともした家々が、並ぶ山間の集落が見える。

リリもきっと同じことを考えているだろうと思いながら、

「今日はどこに泊まろうか」

というと、リリは、

「海の見えるところで泊まりたいわ」

と言った。
ナディンは、運転の疲れもあって、

「ねえ、海の見えるところまでは、あと一つ山を超えなきゃならないのよ。もうこんなに日暮れだし、今晩はこのあたりのどこかに一泊させてもらいましょうよ」

というと、リリはしぶしぶオーケーした。

リリは昔から、こうと決めたらやる質だった。だから自分のできないことや、やれないことがあると何が何でもやりたくなるのだった。けれど、長年、歳をかせねてゆくうちに、できないこともあることを受け入れることができるようになっていた。子供と同じかもしれない。しかし、子供と根本的に違うのは、すべて彼女の原動力は、本人が思っている以上のロマンチストであるからだった。
彼女にかかると、日常の一切は、きらめきだし、輝いて、自分を王女様にすることもわけないことだった。
そこで、無限に浮かび上がる彼女だけの空想を描いて、過ごすことが上手だった。
その中では、すべて万人に愛される姫君や、切ない思いをいだく王女や、彼女の想像力にかかった主人公がやってきては、彼女の生活を給仕するのだった。
美しい想像力も、ひとたびリリの手にかかれば、永遠の命が授かるようだった。
しかし、彼女は、ずっと家にいてばかりで、家事や子育てに追われているうちに、その想像力もだんだんに色あせてきてしまっていた。そのことを彼女自身が、悲しく思っていたのだった。
空想ばかりしているリリにとって、友達といえるのは、ナディンだけだった。
彼女の語るロマンスの話は、現実に生きているものたちにとっては、絵空事であり、虚無でしかなかった。
そのズレを、本能で感じるように、彼女も他の場所では話さなかった。

ナディンは、自分がいなければ彼女は、どうしようもないのではないだろうかと思い始めていた。
歳をかさねていくうちに、人はいろんなものを受け入れ吸収し、取捨選択を繰り返していくものだが、リリの持っている想像の力は、子育てでいそがしくなったとはいえ、根本は色あせることはなかったのだった。
そのことに、ナディンは、敬虔な気持ちをもちながらも、危うさも感じずにはいられなかった。

この子は、このままいったら、あたしという存在がいなかったら、自分のロマンスや想像を話せる場所がなくなるのではないか。
きっと、この子にとったら、その力を封じて周りと調和しようとすることは、羽根をもぐようなことでもあるだろう。
かといって、絵空事だけで終わればいいのだけれど、今回みたいな旅ともなると。
彼女が突拍子もないことをすることはあったけれど、ここまで行動起こそうとするのは、珍しい。
それくらい、彼女自身が参っていたことになる。
それを理解できるのは、自分くらいなものだから。

とナディンは、彼女への想いをこめて、この先幸せがやってきますようにと祈るしかなかった。

リリは、海辺の町じゃないのなら、山間の集落の中じゃ、どこに泊まるのも同じだわ、というような顔で、窓から家々を眺めていた。
ナディンは、日没の前には、宿を探したかったが、あたりはもう暗くなり、家々は明かりが照らされていた。
この集落は、夜が早いのか、道を歩いている人は誰もいない。
これじゃ、宿を探すといっても、わかりようがない。
せめて、モーテルのような看板があればと思ったが、国道沿いにあるようなきらびやかなホテルのような場所は、この土地にはなさそうだ。
ナディンは、おもいきって、車を止めた。

「宿泊できる場所がないか、聞いてくるわ」

そう言うと、リリはぼんやりしながら、うなづいた。
その様子をみて、ナディンは、ふうとため息をついた。


一番近くの明かりのついている家の前で、ドアのチャイムを鳴らすと、人のよさそうなおじいさんと、お嫁さんであろうか中年の婦人が出てきた。
宿の場所を聞くと、この先の道をすすんだところに、看板は出していないが、宿として部屋を貸すときもあるという家があるそうだった。
お礼を言って、家をあとにし、車に戻ると、エンジンをかけた。
ナディンは、疲労が出始めているのを感じた。
山を越えてこんなに運転したことなどほとんどないのだから。
暗くなりかけた集落の道を、北に進んでいった。
言われた家は、集落のほとんどはずれにあった。
玄関のドアの前はちょっと広くなっていて小奇麗にされてあった。
看板はないが、人を呼ぶ家であることを匂わせていた。

ドアにある呼び鈴を鳴らすと、すぐに、エプロンをした中年の婦人がやってきた。

「今日、一泊できますか」

そういうと、驚いたようにしてから、ちょっと困った顔になり、

「食事の用意などもできないけれど」

と言った。急だったし、こんなに暗くなってからのことだから、それくらいは覚悟の上だと思った。

「構いません。休ませていただけるだけでも」

そういうと、婦人は、ちょっと待っててといって奥に入っていった。
奥の部屋でなにやら、話していたかと思うと、やってきて、

「何もおかまいできませんが、どうぞ」

といって、玄関を大きく開けてくれた。
ナディンは、すぐさま車にもどり、このことをリリに伝えると、リリは眠そうにしながら、バックを持って車を降りた。
ナディンはトランクは、そのまま車に置いたままにした。

リリは、婦人に、ニッコリとあいさつをすると、呼ばれるままに、玄関から入っていった。
奥の部屋には、大きな肘掛ソファーにおじいさんが座って、キセルを加えてテレビをみていた。
リリとナディンをみると、こちらを見上げてにっこりとうなづき、またテレビに目をもどした。
その様子に、一家の長であることが伺えた。

ナディンたちが、案内された部屋は、二階の階段を登ったすぐの手前の部屋だった。
奥は、奥さんの寝室になっているようで、階段のすぐ手前の端には、トイレがついていた。
お手洗いはそこを使うようにと、説明された。
婦人は、ベッドのシーツやらタオルやらベッドメイクやらと、てきぱきと動いていた。
こんなに夕暮れに、突然やってきた客だというのに、嫌な顔一つせずに、ときどき説明をしながら、手を動かしていた。
一通り、部屋のメイキングが終わると、一階に行き、しばらくして、ミルク入りのあつい紅茶を持ってきてくれた。

部屋のテーブルについている椅子にすわり、紅茶を受け取った。
リリは、あったかいカップを持つと、嬉しそうに顔が緩んだ。
昼間から何も食べていないリリは、久しぶりに口に入れる紅茶の湯気を味わいながら、そっと飲んだ。
婦人は、昔にこの家に嫁いできた人だそうで、ときどき頼まれると宿として、部屋を貸すのだと言った。
部屋以外は、まったくの民家であるため、他の部屋へは入らないようにと伝えられ、シャワー室は、一階の奥の突き当たりだと説明された。
宿をしているといっても、どうみても普通の家だ。
知り合いでもない普通の人の家に泊まるなんて、ナディンもリリもいままでなかった。
リリは、緊張しつつも新鮮なようだった。
婦人がいなくなると、リリは、ベッドに飛び込んだ。
ナディンも同じ気持ちだった。
今日は、昼から、リリの家に行き、そのあとデイと話をし、荷物をもって旅にでたという、あまりにたくさんのことがあった日だった。運転も疲れた。
リリにしても、昼間から泣きつかれ、その後、旅にでることをナディンに話、デイや子供たちと別れをつげて、こうしてきたこともない土地までやってきた。
リリは運転の疲れはないにしても、昼間、ナディンの前でいっぱい溜めていた感情を溢れさせて、涙とともに流す作業は、後から疲労がやってくるものだということを、ベッドの上で理解していた。

二人が、疲労に沈黙する中、ドアがノックされ、婦人が、サンドイッチをもってきてくれた。

「あるものの材料しかないけれど」

と、ハムと卵とレタスがサンドされた質素なものだったが、このときのナディンとリリにとっては、何にもまさる褒美だった。

お礼をいうと、ナディンもリリも、もくもくと食べた。
一口食べるごとに、この土地でとれた食べ物が、労いと優しさで二人を包み、力を与えてくれるようだった。
婦人の心遣いも、疲れた二人にとってこれ以上ない、スパイスとなっていた。
紅茶と、サンドイッチでお腹が落ち着くと、急激に睡魔がやってきた。
そして、二人とも、シャワーをあびることなく、そのままベッドに横になると身体ごと沈んでいった。

ぐっすり眠って、ナディンは朝方目がさめた。
いつもと違う場所にきて、はっと目が覚め、隣に眠っているリリをみて、ここがどこかを思い出した。

リリは気持ちよさそうにねていた。
その寝顔をみて、日ごろの疲れからも解放されているようだった。
子供たちが起きる前に、起きて食事の支度をし、慌しい時間を過ごしている主婦の朝は、ナディンには想像しかできなかった。リリは、日常に疲れていたのかもしれない。子供たちやデイの前で、母であることや、妻であることが。


外が明るくなってきていたので、窓辺に寄った。
外を眺めると、雲が白んで山間から朝日が昇ろうとしているのがわかる。
橙色に雲をそめて、濃い色となっているところから、太陽が昇ってくるだろう。

集落の景色が、浮かび上がってきていた。
昨日は暗くてわからなかったが、この家は、少し高台になっているようだ。
周りの家々の景色を見下ろすようにして立っていた。
家々に、朝日が差し込んでいく様子をナディンは、見つめていた。
いままで、普段の生活の中で、これほどゆっくりと朝日をみることなどあっただろうか。
ゆっくりと明るくなっていく景色と、その美しさに、朝焼けの感嘆の時を過ごした。
朝日とともに、温かさもやってきた。
今日は晴れのようだ。

家の玄関の前にある花壇には、すみれだろうか。
紫の花や、黄色の花が揺れているのが見える。
見渡すと、家々の軒先や、庭にも、小さな花がいくつも咲いている。
気づけば、いまは、初春なのだ。

さきほど、日常に疲れていたのではと、リリのことを言ったが、疲れていたのは、彼女だけではなかったようだ。
ナディン自身も、ここへ来て、日々繰り返される日常の中で取りこぼされた何かを、見つけていた。
彼女自身は、この旅に反対だった。
しかし、今となっては、自分にとっても、何か新しい発見の旅となるのではないだろうかと感じ始めていた。
朝日の揚々さが、彼女をそう思わせたのかもしれなかった。

部屋に光が差し込む頃、リリもベッドで目を覚ました。


※※※※※※※※※※※※※※※※




リリは日記のはじめに、こう記した。



「いとしくて、その会えないせつなさをたとえようもなく感じる
時間は、わたしに多くの恵みをもたらしてくれたのだろうか。
わたしが、ここに記されるまでの長い間、ただ眠りにつく姫であればよかったと
思わぬ日はない。
わたしが、目覚めてから最初に見る顔が貴方であったら、それだけで
人生が色づいているものだと理解できるのだ。
逢った瞬間にわたしの中の何かを思い起こさせる。
それが、わたしの中の一番大切で懐かしい場所からやってくるような
甘いミルクのようなひと時、その瞬間を呼び起こさせるような人。
目の前に逢った瞬間に、気絶してしまったの。
わたしが、あんまり長い間待ちわびていて、それが成されなくて、悶絶し、苦しくて
切なくて、泣きたくて、それを忘れたくて、そんな相手だったから。
女が紐解いてゆくわが身に起こる人生の謎を、男は決して理解できないだろう。
わたしには、いつのときも、恋が必要なのだ」



ナディンが、彼女のもとをおとづれたときは、すでに彼女は目を腫らして泣いていた。
学生の頃からの付き合いになる無二の親友ではあるけれど、彼女の突飛な行動には
いつも驚かされ、とまどい、それが彼女リリなのだとわかるまでには、数年来かかった。
そして、今日もまた電話ごしに鼻をすする声で『泣きたいの』と言われ、
急いできたナディンが家のドアをあけると、リリの目は真っ赤にはれていたのだった。

「どうしたの?どこか悪いの?」
そんなにどこか痛いくらいで、リリは自分を呼んだりしないことはわかっていたが、ナディンは
優しく彼女に声をかけた。
「あたしね、やっぱり生きていても仕方ないんじゃないかと思うの。そう思ったら、いますごく悔しくて悲しくて泣けてきたのよ」
「なんで、そんなこと思ったの?」
「だって、あたしには運命の人っていうのが、さっぱりあらわれないんだもの。好きになる人がいても、その人が、魂をかけても愛したい人かっていうのとは違うわ。現にデイが、そうだわ」
ナディンは、リリをなだめるように、隣に座った。彼女はお気に入りの花柄のベッドカバーの上に座って外を見ていた。彼女が本気で泣いているのがよく伝わってくる。
「どうして、急にそんなこと思ったの?デイと何かあったの?」
「デイとは何もないわよ。何も本当にないの。でも、あたしの魂を理解したり、何か人生の喜びをどうとか一緒に分かち合うには違う相手なのは確かなのよ。
結婚しているのに、こんなことをいうのは、神様からお叱りを受けるかしら。
でも神様やあたしに、いいことをしてくださろうと思う聖人君子たちや精霊たちにも、自分の気持ちをしっかり伝えておくのは、そんなに悪いことなのかしら。あたしは、いまのままでは、この家の中で主婦っていう仕事に殺されてしまうわ。子どもを育てて、自分の家族のためだけに、自分の時間もなく、夫を支えてっていう尺ズが、何かとんでもなくあたしには長い牢獄に入っているような気分になるのよ。きっと精霊や神様たちは、このよりよい生活の中から幸福をみつけだしなさいとおっしゃるかもしれないけれど、あたしにはいまはとてもそんなことは無理だわ。だって、毎日つまらないんだもの。
デイを好きなのには変わりないけれど、とろけるような恋ではないし、始めから安定してるような人で、決してあたしに取り乱したりもしないけれど、自分を出したりもしない。同じテレビを見て、ちっとも感想を分かち合えないような人といて、楽しいって思えるかしら?
そんなことを考えていたら、恋してみたいなと思ったの。いいえ、正確には違うわ。あたしには運命の人がいるのに、まだ出会っていないのよ。
だからこんなに、相手のことを考えると苦しいんだわ。運命の人って、いうのはね、逢った瞬間にわかるもんなの。この人に逢うために、あたしは生まれてきたんだって思えるような人のことなのよ。そしてとろけてしまって、抱きしめられると気絶してしまうの。魂全部をかけても、やっと出会えるようなタダ一人の唯一の人のことなんだもの。そしたら、その人と合えたことに感謝が限りなくあふれてきて、あたしのすべてを満たしていくの。内臓器官やすべての過去もそれでとろけてしまうのよ。そんな運命の人に逢いたくて、あたしは毎日からぬけだしたくているのよ。ナディン聞いてる?」
ナディンはリリの話がまたいつものように、想像力豊かに膨らんでいることに笑いがこみ上げてきていた。彼女はいつもこういったことに真剣なのだ。そして、そのことを理解してあげられているのは、自分くらいだろう。リリの夫であるデイは、物静かな人で、理解していたとしても、それをリリにあらわしたり、感情を受け止めようとはしない。ただ黙って見守るような人なのだ。そこにいつもリリが
不満を抱いて、自分に文句を言いに来るのだが、リリにはわたしのような人がいないとダメなのかもしれないと思った。
「リリ、それでどうしたいの?」
「それを一緒に考えてほしいのよ。あたしったら、あなたしかこんなこと話せる友達はいないのよ。だってこんなこと言ったら、いい大人なのに、何をバカなことを、ってきっと言われちゃうんですもの。そして、デイにもあなたしかいえるひとはいないの。」
「あたしが、デイになんていえばいいの?」
「リリは、毎日の生活につかれちゃいました。だから運命を探すたびに出たいそうです。って言ってくれればいいの。」
「でも本当に旅にでるの?あなたのおかあさまもそれを許さないんじゃない?」
「そこなのよ。大きな問題は、あたしにいくら大きな羽根がはえていても、翼を閉じるようにしむけれられちゃうってことなの。でも、こんな大きな翼をもっているのに、自由に飛ばないなんて、生きている意味なんてあるのかしら。あたしは、地面を這うようにして生活するなんてまっぴらなのよ。そんなことするくらいなら、舌をかむわ」
リリは、そのころ流行っていたドレスや、巻き毛のカールなど、まわりの女性たちがこぞって何かの流行に追われているのを横目に、自分流の好きな格好をしながら行きたいように、暮らしていた。流行に左右されたりはしないかわりに、誰かに面と向かって、言いたいことをいうとか、やりたいようにやるってことができなかった。だから、いつもそんなときは、自分が側でフォローしなければならなかったのだ。彼女が好きなことをいって、甘えられる相手がいるとすれば、デイではなく、ナディンだったのかもしれない。ナディンはそのことをときどき心配していた。もし自分がいなくなっても、リリはいきていけるのだろうか。

「ねえ、ナディンきいてるの?あなた、あたしが、泣いているのに、何をほかのことを考える必要があるのよ。それでね。あたしが、運命の人を探すたびっていうのは、この小さな田舎町じゃ見つからないとおもうのよ。あなたもついてきてくれるわよね?」
ナディンは賛成しなかった。
「どうして?なぜなの。ナディン」
「リリ、あなたが毎日そんなに不満があるってことをデイにちゃんと伝えたほうがいいのだとおもうけど、デイだってあなたを愛してるんだから、悲しむと思うわ」
「デイの話はいいのよ。あたしこんなところに毎日いたら、どうにかなっちゃうわよ。どうして、あたしもっと飛んじゃだめなの。どうして、結婚して、子どもが生まれると、遊んだり飛んだりして生きられないの?」
リリの悲しみは、本当に深いようだった。傍目には、とても幸せそうに見えていたが、彼女の心の中にある、満たされない思いに気づいている人は、わずかばかりだっただろう。そして、それが、どうあってもみたされないものであるというのことに気づいていないのは、彼女本人も例外ではなかった。彼女がいつも、友人のナディンに話していることは、親友と出会う前までは、愛犬に話していたことだったのだ。彼女は幼少の頃から、おとなしく一人であぞぶ事になれていたが、まわりと何かを一緒にやることや、まわりと分かち合うことができないことが多かった。彼女は彼女なりの哲学や価値観があり、それをまわりと分かち合うとすれば、共有できないことのほうが多かったからだ。彼女がそれゆえに、だれにも心を開けずに、孤独な毎日を送っていたことは、容易に想像がついた。彼女の心を支えていたものは、彼女が一人であることの価値観を誰にも頼らずに、自分だけに課していたことだったから。
そして、彼女の本当の強さとは、だれにも頼らずに自分を持っていることだったのだが、このことを彼女本人も気づいていない。まわりと自分は違っていて、それがどんな意味を成しているかなど、
わかることはできなかった。

ナディンは、リリに優しく話した。
「ねえ、あなたがどんなに悲観しようとも、家族は、あなたを愛しているわよ。それに、もし旅に出るとしたら、子供たちはどうなるの?」
リリは、さめざめと泣いていた瞳をこちらに向き直すと、強いまなざしでこういった。
「子供たちのことも、そうよ。
わたしは、自分の人生のとても大切なことのために、家族がそこにいすわらなきゃいけないなんて想わないのよ。わたしには、いまこれがとても必要なのって思えることがあるのに、子供たちの世話にあけくれているのは、納得いかないことだもの。
これは、きっと神様でもそう想うと想うわ。
わたしという人間をお作りになった神様なら、きっとわかるはずよ。
リリには、大切なことがあるのに、家族の犠牲になってちゃいけないってわかってくださってるわ」

ナディンは、はぁ、とため息をついた。
自分の力でどうにかして、リリの言い分を変えるなんてことは、できないのだった。
いつも彼女の話は、突拍子もないかわりに、とてもまっすぐで計算のないものだった。
どんなことでも、ナディンには、打ち明けている彼女だったが、それを飽きることなく話に付き合いながら聞いているのは、そういう純粋でまっすぐな彼女の言い分が愛しくもあり偽りないものだと信じられるからだろう。

ナディンは、少し落ち着くようにと、ロゼルのお茶を入れてあげた。
彼女は、紅く色味がかったお茶に、自分の顔が映るのをながめながらだまって、すすり飲んだ。リリの中では、大きくて、衝動的にやってくるものの正体がよくわからなかったけれど、自分自身が、いまのままでは、どうしてもいけないんだということしかわからなかった。
旅に出ようといったのも、本当に旅に出ていいのか、はたまた、旅にでたからといってどこに行ったら自分の運命を預けられるような男性と出会えるのかなども、検討もつかなかった。
けれど、そんなことを計画的に考えるような、狭い思考をしていないのも彼女だった。
想ったときに、その通りに動くのが、いままでのリリの慣わしだった。
それが一番シンプルで、自分に嘘がないことだったし、衝動のままに生きているときが、難しいことを考えないですむ正直で安全な近道だった。
少し落ち着いて考えてしまえば、デイと子供たちのことを置いて、どこか遠くへ旅に出るなんてことは、できそうもない自分がいた。
けれど、身体の底からわきあがるような切望をまるで何もなかったことのように、無視してしまうのは、同じ生活を繰り返す日々の中に浮かぶ一点の消せない黒い染みのように後味悪く残してしまうことは、想像がついた。
リリは、この今の生活から逃れたいという切望が、おさまったとしてもまた自分に舞い戻ってくることもわかっていた。
悲しかったのだった。同じことを繰り返す毎日の中に、自分の喜びがだんだんに見出せないのに、それが、周りから女性として幸せなのだと押し付けられることを受け入れられるほど、リリの思考は簡単にできていなかった。

黙ったまま、何かを考え込んでいるリリの側で、ナディンは、彼女が戻ってきてくれることを願っていた。
少し落ち着いたら、考えも変わるだろう。それがまた発作のように彼女に舞い戻り衝動へ導くものだったとしても、今少し落ち着いてくれれば、と。

リリは、少し遠くを見るようにして、窓辺にすわった。
昼下がりの時間の、まったりとした時間がすぎていった。

すると、
「あっ!」

リリが叫んだ。
「デイが帰ってきたわ。」
ナディンに向き直ると、リリは、早く!といわんばかりにナディンにせっついた。

「あたしは、デイには会わないわよ。
会ったとしても、今の決意は変わらないし、この気持ちに嘘がない以上、デイには会えないわ」
ナディンは、はぁとため息をついた。
「あたしが、デイになんて言えばいいの?旅にでるそうよって言えばいいの?」

リリは、少し考えたかと想うと、
「リリは少し家を出ますけど、何も問題ないからと言ってくれればいいわよ。」

ナディンは、階下に下りていった。
玄関のドアのところで、デイがいるのを見た。

「こんにちわ」
ナディンはそう言って、デイに歩み寄った。
デイは、知人宅で家屋の修復や野菜の荷積などを手伝って帰ってきたところだった。

「やあ、ナディン来ていたんだね」

屈託なく笑いかけてくれるデイに、なんて言えばいいかナディンは心が細るような想いだった。

「あのね、デイ。リリのことで話があって、来たんだけど。」

ナディンの気がかりをよそに、デイは、変わらず、うんとうなづいて見せた。
リリがどんなに悩もうとも、デイは変わらずデイだった。
彼女がどんなに繊細なことで頭を抱えても、デイはその内容に触れ一緒になって頭を抱えない代りにそのままの彼女を愛していた。
リリにとっては、一緒に考え悩み、よき相談相手となってくれる、いわゆる魂よりそいし仲となることを望んでいたのだ。
その願望をリリがぶつけたとしても、彼は、今ナディンの目の前で笑いかけるように変わらぬ笑顔で接したことだろう。

「デイ、あのね」

そういいかけて、ナディンは、口を開くのをやめた。
野菜を運んだ木箱やら、ロープをかたづけながら、話を聞こうとしているデイをみて、
ナディンは、思った。

きっと、この人に話しても、リリのことをわからないんじゃないだろうか。
この人にとって、毎日の生活はありのまま、そのままで、何も問題なくすばらしい世界であると思っているのではないだろうか。
そんな人に、リリの話す、想像力豊かな、妄想を話しても、ましてや、運命の話をしても、デイは、その話をそのまま受け止めて、ニッコリ笑うだろう。
きっと、それが、どれほどリリにとって、大切か、いまそのことでリリがどれほど、苦しいかなど、この人には、わかるはずもないのだ。今、この人にとっては、目の前にある生活すべてが、何も差し障りも無いほどに、穏やかで、豊かで、幸福であるはずなのだ。そんなことを、リリにとっても、わかるはずがない。リリは、自分の気性が、デイにはわからないと思っていることも、彼は、そのままの彼女を受け入れ、愛し、そして大切にしているのだろうから。
リリの話のすべてを話そうとしても、きっと彼には、本当の意味で、理解したり受け入れられないだろうし、そんなリリのまんまをただ彼は愛しているのだろうから。

ナディンは、とっさに嘘をつこうと決心した。

「あのね、リリがね、この間転んだところの腕がまだ痛いらしいのよ。それで、家事ができないっていうから、わたしが変わりに手伝いに来てるのよ」

デイは、「え?」と少し驚いたようにしてから、

「そうなんだ。ありがとう。それで、リリはまだ痛いのかな」

ナディンは、しどろもどろになりながらも、

「そ、そうね。けれど、子供たちの世話も、まだ手がかかる時期だし、一日中家にいて、大変なようなのよね」

デイは、二階をみながら、

「そうかあ、俺がもう少し家にいて、彼女を手伝ってやれたらいいんだけど」

ととても、切ないような顔をした。それをみて、ナディンは、デイの性格のよさと、本当に彼女をいたわり、大切にしている気持ちを感じて、彼を受け入れられないリリと彼女のために今小さな嘘をついている自分を恨めしく思うのだった。

「いいえ、デイ、あなたはよくやっているわよ。コリンやバーバラにとってもいい父親だし、友人のわたしからみても、あなたはとてもよくやっているいいハズバンドよ」

デイは、少しはずかしそうに、こくんとうなづき小さくお礼をした。

「けれど、リリをもう少し、自由にしてあげられたらいいんだけどな。きっとガチがちにがんばってしまう性格だろうから、家のことを彼女に任せてしまっていたら、彼女は疲れすぎてしまうんじゃないかなと思っていたんだ」

ナディンは、穏やかで、ゆったりした大地のようなデイが、なんと彼女の性格を読んでいたことに、驚きと新鮮さを感じた。

「まあ、デイ。あなた、そんなことまで考えていたのね。きっと彼女が聞いたら嬉しがるはずよ」

そういうと、デイは、

「ナディン。きみには彼女もいろいろ話すと思うから、いい相談相手になっておいてくれね。彼女はとても繊細だから、決めた相手にだけ打ち明けるだろうから」

そういって、荷物の整理を終えた。

ナディンは、思ってもみなかったような風の吹き回しに、思った。デイに、いっそのこと話してみたら、もしかして解決するんじゃないだろうか。

ナディンは、あまり人に嘘をついてきたことがなかった。デイに対しても親友のハズバンドということもあったし、とても穏やかで優しい人なので、つく嘘というものがこれまでなかったのが、今はじめて嘘をつこうと思った。


「デイ、それでこれは提案なんだけど、わたしの母方の姉がね、ここから二つ街を越えたところに農場を持っていて、そこが避暑地にはとてもいいところなのよ。腕の傷といっても、見た目にはもうないのだけれど、毎日ここで家のことをやったり、子供たちの世話をしていたんじゃ、治るものも治らないんじゃないかしらと思って。いっそのこと、2週間ほど、リリを叔母のところで保養させてみるっていうのはどうかしら。新鮮や野菜や果物もあるし、そこでとれたハーブでつくる叔母のジャムはとても美味しいのよ。リリにも食べさせたいし、彼女の腕にもいいんじゃないかと思って」

そういうと、デイは、その提案をゆっくり考えているようにしてから、

「そっかあ。リリはそれがいいっていっていたのかい?」

「リリには、これから話すけれど、あたしが勝手に考えたことだから」

そっか、といって、ちょっと考えてから、デイは穏やかに口をついた。

「じゃ、うちの母にきてもらうことにするよ。リリがいない間の家事や子供の世話をしてもらうように。孫の相手をするのも、いい運動になるだろうし、母も孫と会いたがっているだろうから。適当に、俺から、リリは遠くの町で開かれる同窓会に出席することになったからとでも、言っておくから留守の間は心配ないよ」

「わあ!本当に?きっと叔母のつくる野菜や、ジャム作りが、リリのいいリハビリになるはずよ」

そういって、喜ぶと、デイは、よろしく頼むね、と言って荷物をもって奥に入っていった。

ナディンは、話しがうまく通ったことでホッとしたが、デイの根底からの人の良さと温かさを感じて、リリの申し出を受けてこんな嘘までついてしまった自分が、後ろめたく胸がぎゅっと苦しくなった。

少しの重い足取りで、二階へいくと、リリは、窓辺にあるベッドにすわり、窓あけ、外を眺めていた。
風にゆれるレースのカーテンや、新緑の葉からもれる木漏れ日の中に、リリはいた。


戸をあける音をきいて、振り向いたリリは、もう泣いてなかった。
何かを決意し、振り切ったような顔をしていた。

「リリ、話してきたわよ」

そういうと、リリの表情はぱっと明るくなった。

「ねえ、なんて話したの?それで、デイはどうだって?」

デイにいった嘘のことや、そのままを話して聞かせた。
そして、彼が承諾したことを話したとき、リリは小さく雄叫びをあげて、喜んだ。


「ナディン!なんて、あなたは賢いの?あたしそんな嘘、考えもしなかったわ!デイもそれを許してくれたなんて」

と言ってはしゃいだが、ナディンは話しているうちに気分がすぐれなくなっていった。

「リリ、あなたは、あんなにいい旦那様がいるというのに、どうして運命の相手をさがしにいくだなんていうのよ。あたしは、あんな聖人のような人に嘘をついてまで、あなたの肩をもったりして、これで何かことが起きちゃったら、一緒に地獄行きだわ」

そう、口にすると、本当に地獄に行きそうな気がしてきてますます気持ちが滅入りそうになった。


「あら!ナディン、そんなこと思わないで。だって、仕方ないじゃない。デイが聖人のようだっていうなら、わたしたちは、間違いなく、小悪魔のようでしょうよ。だから、この家が息がつまるのよ。わたしが、思い描いていることをやるためには、この家に流れている穏やかさがあわないのよ。このままここで一生終えたんじゃ、あたしは間違いなく聖人様にはなれないわ。それに、じゃあどうして神様は、こんなこらえ性もない性格にわたしをお作りになったのかしら。そっちのほうが、うらめしいわ。家にいて、家族とだけ過ごして、それで満足って女に生まれたなら、こんなことにはなっていないはずだわ。それができたら、わたしもどんなに幸せかって自分でも思うのよ。けれどどうしてか、わたしを旅させるように、神様がお作りになったとしか思えないわ。こんなに家に居心地がわるくなるのは、わたしだけのせいじゃないと思うのよ」

そう、リリは自分ならではの正論を言っていたが、ナディンの耳には、遠い潮騒のようにしか聞こえてこなかった。

ああ、自分はなんてバカなことをしたのだろう。
この子と自分は、なんて罪作りなことをしたのだろう。ドサクサにまぎれて、『わたしたちは、間違いなく、小悪魔』とリリが、言ったのを耳にしてはいたが、そこに異議を申し立てる気力もなくなっていた。
リリをみれば、彼女も何か考えているようだった。無理もない。自分の気性で、ここまで話が大きくなったけれど、実際デイにしてみれば彼女はとても大切な妻であり、女性であって、それもリリは十分に理解しているのだった。彼が、ナディンの作り話を疑うこともせずに、リリを心配して彼女のためにと旅を承諾してくれた彼の優しさの前に、何も感じないほどリリも人に無頓着ではないのだった。

葉の揺れるのを眺めるように一箇所に焦点をあわせて、ぼんやり外をみていたリリは、立ち上がった。

「ナディン、さっそく出発しましょうよ。
ここでグジグジしてたんじゃ、せっかくの旅の機会に機嫌をそこねちゃいそうになるわ。
デイも納得しているのだし、堂々と出て行きましょうよ」

といって、クローゼットやタンスをいっせいに開けていった。
あっという間に、ベッドや壁に服が敷き詰められていき、旅が長旅になることをあらわしていた。
リリの好みでそろえられたクローゼットのたくさんの衣装たちに囲まれて、窓から吹く風の中、
彼女は、決して言葉にしないであろう、デイへの想いを整理しているようだった。

ナディンは、彼女が彼女なりにこの旅のことを考えている先に、口にしないデイへの想いがあることを見て感じた。

傍目には何も感じないように、衣装選びをしているふうに見て取れるが、長い付き合いでリリのことを理解しているナディンには、彼女がいま複雑な一抹の迷いを払拭するように、色とりどりの衣装たちの中で一心に心を調律しようとしていることが伺えた。

彼女にとっても、今回の旅は、初めてのことなのだ。

泣いていても、愚痴をいっていても、リリにとってデイの存在はいままで大きかった。
その彼と離れるというのは、運命の相手を探す旅といえども、彼女にとっては、古巣を離れるような、離れがたい気持ちがないはずがなかった。

ナディンは思った。
運命の相手を探すたびといっても、どこに行き、何を手がかりにすれば、リリの気持ちは落ち着くのだろう。
二週間もの間、女二人でどうやって過ごしたらいいのだろうか。
遠い街まで車を走らせ、いつもと違う景色を見せたらリリの気持ちは落ち着くだろうか。
いや、そんな簡単な女性ではない。

彼女も、この家や日々の環境から抜け出したいという想いから、このようなことになったが、
どこへ行って、何をすれば、自分の腹が満足に落ち着くのかというところまでは、計算していないはずだ。
ただ、この家を出て、どこかへ行きたい。
それが、当面の大きな目標であったのではないだろうか。

リリの衣装選びが終わったようだった。
帽子や、傘、バックなど小物にいたるまで、気に入っているものをスーツケースに入れていた。
いったい、どれくらいの旅になるのだろうかというほど、ケースが三つもあった。
彼女自身も、おしゃれなワンピースに着替えをし、首飾りには三連ものネックレスがしてあった。
こちらに振り向いた顔に紅をひいた唇が、印象的だった。
目は、キラキラして、何の曇りもなかった。
一抹の土産は、クローゼットのどこかへしまわれたようだった。
輝いていた目と紅が伸ばして、リリはニコッと笑った。


「ナディン、すぐ出発しましょう」


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